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ヴォーカルスクール ピアッツァ・アルテ

指導者

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指導者 堀部 一寿(ほりべかずとし)
ピアッツァ・アルテ音楽教室教室長 & リンパ整体院かえる院長

超長い自分史です。読むのが大変な方は、最後の方に一般的なプロフィールを載せていますので、そちらだけでもお読みください。

1961年、東京都新宿区の四谷で生まれ育つ。

幼い頃は、自分の記憶では全く音楽とは縁がないと思っていましたが、後に母親から聞いた話しでは、「自分は歌が苦手だから、子守唄を歌って聞かせたら音痴になってしまうかもしれない。」とのことで、クラシックのレコードをずっとかけてくれていたそうです。また、小学校に上がる前に、オルガンを習わそうとしたそうですが、私が興味を示さなかったために、すぐに止めさせてくれたそうです。
それが、後に幸いすることになります。

小学生の頃は、西城秀樹、郷ひろみ、アグネス・チャンなどの歌まねなどをするも、恥ずかしくて誰にも発表できないような、はにかみ屋のごく普通の少年でした。

それが、音楽との運命の出会いが中学1年の終わりの頃。
中1の時の音楽の先生が、とても熱心でユーモアたっぷりのいい先生で、苦手だった音楽の授業が、一番の楽しみの時間になりました。
そうした中での、最後の歌のテスト。いつもは超が付くほど奥手だったので、ほとんど声は出せていなかったのですが、その先生が3月いっぱいで学校を辞めると聞いていたので、最後に自分なりの頑張りを示して、それを先生へのお礼の気持ちとしたいと思っていました。
ところが、人前ではまともに声を出したことがなかったので、声が震え、音程もメチャクチャ。
クラスメイトからは、失笑の笑い声が出ました。
その時に、いつもは優しいその先生が怒って、「お前達は、本気で頑張っている同級生を、どうしてそうやって笑えるんだ!」と言ってくれて、笑い声はおさまりました。
その瞬間、先生への感謝の気持ちと共に、音楽への愛が高まり、その日家に帰るなり母親に、「何か音楽を習いたい」と言ったところ、母が幼少の頃、ヴァイオリンを習ったけど挫折して、その時の楽器が家にあるということで、とんとん拍子でヴァイオリンを習うことになりました。
その晩からは、家にあったクラシックのレコードを片っ端から聴きまくりました。
初めて聞いたレコードでも、どれを聴いても何故か懐かしいような気分になりました。
これが、幼い頃に子守唄代わりに聴かせてもらっていたレコードだったのです。

高校に入り、吹奏楽部に入部しました。中学の時にやっていた卓球部に入るか迷っていたのですが、先に見学に行ったのが吹奏楽部で、その場でクラリネットを渡され、美人の先輩が親切に教えてくれたので、もうそこで決めてしまいました。

ある時、父親が1冊の本を買ってきて、「これを読んでみたら」と渡されました。それは、「友よ!未来を歌えー日本フィルハーモニー物語」という本でした。その本には、プロの日本を代表するオーケストラの給料がすごく安くて、これでは生活できないと組合を作ったら、全員が解雇され、裁判による闘いと共に、市民と共に歩むオーケストラとして、全国を廻ったりして音楽の良さを広げていこうという活動に目覚めた。といったような内容でした。
高度経済成長期で、市民の生活に余裕が出ても、文化に対する意識はまだそんなものなのかということを知り、将来はそういったプロで活動する音楽家や芸術家の支援をするようなことに携わりたいと思いました。
そして、高校時代には、日フィル協会という日本フィルハーモニー交響楽団の活動を支援する協会の会員となり、定期演奏会の学生会員に向けた広報紙の中に、文章を投稿したりしていました。

その頃、将来の進路について考えたのは、「中学校のあの先生のように、得意でなかった音楽を一番好きなものに変えてしまうような人に自分もなりたい」と思い、両親に「学校の音楽の先生になりたい」と相談しました。
両親は公務員でしたから、「もしフリーの音楽家になりたい」と相談したら、もしかしたら反対されたかもしれませんが、学校の先生なら公務員ということもあってか賛成してくれました。

そして、ピアノは絶対に必須だからと習い始めたのは、高1の秋からでした。
また、とりあえずピアノを頑張れば、音大の教育科に入れると思っていたのですが、本格的に受験の準備をする段階になって、教育科でも何か専攻を持って、その実技試験を受けなければいけないことも分かりました。
それで、ヴァイオリンは、ピアノを始めた高1の時には止めていたし、それほど上手くならなかったし、吹奏楽部でやっていたクラリネットも指導者がいた訳ではないので、自己流でとても受験で吹けるようなものではなく、今からでも間に合う可能性のあるものということで、声楽を習い始めたのが、高3になる頃です。

そこから1年は、ピアノと歌の練習に明け暮れ、何とか東京コンセルヴァトワール尚美(当時の名前は、尚美高等音楽学院)の教員養成科に入学することが出来ました。
とりあえず入学できる最低限の勉強をしてきましたが、専攻の歌も、基本的な音楽の能力も、一般常識的なことに至るまで、クラスの底辺からのスタートでした。
そこから、頑張ってというか、音楽をたくさん学べることが嬉しくて楽しみながら学んでいくうちに、クラスの真ん中くらいにはなっていたと思いますが、クラスメイトを見ると、管楽器専攻生などは本当に先生になるんだと頑張っている人も多くいましたが、その一方、のんびりしていて単位さえ落とさなければいいや、といった感じの人も多くいたような気がします。
そこで急に不安になって、受験で第1希望だった別の音大を受け直して、そちらで学びたいと真剣に考えました。しかし、専攻の恩師である西義一先生に説得され、「どこで学ぶかとか、誰と学ぶかではなく、自分がしっかりと学んでいけば道は必ず開けるから。」と励まされ、挫折せずに続けることが出来ました。
気持ちがっ吹っ切れ、目指すようないい先生になるためには、この学校でしっかり学び、周りに振り回されることなく、頑張っていこうと決意しました。

その西先生が、ある時に仰ったのは、「私は生徒の様子を見ていれば、どんなことを考えているか分かる。なぜ分かるかと言えば、私はオペラの勉強のために徹底的に人間観察をして、人間はどういう時にどういう行動をとるのかを見てきた。なので、大抵のことは分かるんだ。」という話しを聞きました。
そこで、単純な私はそれならオペラを勉強しようと思い、そう思った瞬間からは、自然とそういう場所が与えられるもので、同じ西門下の先輩の守谷市に住んでいる横瀬公子さんが私の前のレッスン時に、「水戸の茨城オペラで「魔笛」の夜の女王をするのだけれど、男性役が足りないので誰かいないですかね?」という相談を西先生にしていて、その場にいた私に先生が「お前出てみたら?」と本気か冗談か分からない言葉を私は真に受けて、水戸までオーディションを受けに行きました。
そうしたところ、余程出演者がいないことで困っていたのか、その場で「ザラストロの役で出てください。」ということになり、それから半年、毎週、水戸まで練習に通うことになりました。
という訳で、私のオペラデビューは、21歳の時(歌を始めてまだ4年目)に水戸の県民文化センター大ホールで、当時すでに藤原歌劇団で演出を行っていた松本重孝さん演出による「魔笛」のザラストロ役でした。

それとほぼ同時期、教員養成科から研究科に進んだ時、同級生で現在、オペラシアターこんにゃく座の中心メンバーとして活躍している梅村博美さんが、新しくオペラの教室を始めるのでやらないか、と声をかけてくれました。梅村さんは、中学生の時にこんにゃく座が自分の学校に公演をしに来てくれた時に感動し、自分もこんにゃく座に入るんだと決心し、その想いを貫徹させた素敵な女性です。
その教室は、元こんにゃく座の故 小城登さん、その時のこんにゃく座のトップ歌手、竹田恵子さんが指導し、こんにゃく体操の創始者、故 宮川睦子先生から直接にこんにゃく体操を教わるというとても贅沢な内容でした。
身体が固くて不器用な私は、この時に学んだ歌唱法と体操が、今でも私の歌や指導法に大いに役立っています。

そして、その頃描いていた将来像は、文化に溢れている都会でなく、まだまだ文化・芸術の活動が盛んではない地方の都市に住んで、そこで音楽の教員をしながら地域文化を育んでいく、音楽の花咲爺さんになりたい、というものでした。
その場所として、選んだのが学生時代に水戸でオペラに出させてもらったことで縁が出来た茨城県。ただ水戸まで行ってしまうと、都内でも何かしらの活動をしたいと思っても遠すぎるので、単純に真ん中くらいがいいかと思って、土浦に住むことにしました。
「魔笛」の時にパパゲーノ役で出演していた阿見町在住の佐藤宏之さんに、「何かあったらお願いします」と声をかけていたところ、佐藤さんの伝で、土浦市の都和小学校で非常勤の音楽専科の先生を探しているということで、そこで1年間、勤めさせてもらいました。

この1年間の間で分かったことは、教員をするということは思っていたよりずっと大変だということ。特に、授業で教える以外ことが山ほどあって、教員をしながら、音楽活動も行うなどという器用なことは、当時の自分にはとても無理だと思えました。
そこで、私は人に教えることは好きだけど、学校という枠の中だけでなく、本当に音楽が好きだという趣味で音楽をする人達に音楽を教える仕事をしたい、と最初とは違う思いが大きくなりました。

そこで、音楽教室をやって、歌やリコーダーを教えていきたい。そのためには今の自分の歌に関する勉強ではとても足りないと思い、留学をしようと決心しました。
行く先で選んだのは、イタリア。西先生はドイツリートが専門なので、普通に考えればドイツに留学するという選択肢もあったと思うのですが、頑丈な骨格や体格を生かして歌うドイツ人の発声法より、割と小柄で無駄な力を全く使わないイタリアの発声が自分には合っていて、勉強になるだろうと考えました。私は、留学はするけど最終的には日本人として、日本人の心の歌を表現できるような歌が歌えるようになりたいと思っていたので、そのためにもイタリアこそふさわしいと思っていました。

そこで、当時イタリアから帰国したばかりで、尚美の講師となり、西先生とも仲の良かった、リリカ・イタリアーナ・オペラを主宰する沢木和彦先生の元で留学前の1年間、イタリア式の発声法を学びました。

そして、イタリアのミラノに1年間の修行に出かけました。沢木先生の紹介で当時、ヨーロッパで大活躍をしていたバリトンの折江忠道さん(現在の藤原歌劇団の総監督)にお世話になりました。運よく同じアパートの1階下の部屋を借りることが出来、ことあるごとに相談に行きました。
1年間で3人の先生を紹介してもらい学ばせてもらいましたが、1人めは、年配の昔ながらの響きをしっかり外さずに歌うことをしっかりと教えてくれたアルバネーゼ先生。2人めは、若手現役のバリトン歌手でお腹の使い方を中心に指導してくれたダルモンテ先生。3人めは、ピアニストで音楽的な表現、歌い方に特化した指導をしてくれたアルジェント先生と、折江さんが私の声や苦手なことを見極めて、必要な先生を紹介してくださったので、1年という短い期間でも最大限に学びたいことを学んでくることが出来ました。

そして、帰国後にはつくば市稲荷前で音楽教室を開校しました。
「ピアッツァ・アルテ」とはイタリア語ですが、訳すと「芸術の広場」という意味になります。
イタリア留学中、プロに限らず、一般の市民にも歌が日常に溢れていて、私がアルバネーゼ先生のレッスンを受けていたある日、前の生徒さんがとても素晴らしい声で歌っていたのをうっとりと聞いていたら、後で先生が、「今の生徒さんはパン屋さんだよ」と教えてくれました。音楽を極めるのは、プロだけに与えられたものではなく、誰でもが楽しめるものだということを感じました。
そういうことを経験して、いろいろな音楽を好きな人達が集まれる場所にしたいという想いから、そう名付けました。

音楽教室での初めての大掛かりな企画は、ロックオペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」を一般公募で人を集め、上演することでした。
たまたま留学前に誘われて、オペラの学校で一緒に学んだ野本さんの指導する合唱団の定期演奏会でこの「ジーザス~」をするので手伝って欲しいと声をかけて頂き、お手伝いさせてもらった時に、音楽がとても格好いいので、いつかはやりたいと思っていました。
音楽教室では、バンド練習用の貸スタジオもやっていたため、地元のロックミュージシャンとの関りも出来てきたことから、思い切って企画をしました。
当時は怖いもの知らずで一気に突っ走った感じでしたが、後から考えたら、よく短時間で舞台に出せるようになり、適材適所の素晴らしいメンバーが集まったなと偶然とは思えない出会いの数々でした。

その後、この公演に出演したメンバーが中心となりミュージカルやオリジナルの音楽を付けた音楽劇の活動を行う「劇団アルテ」というアマチュア劇団を発足させ、私も音楽指導、編曲、時には役者としてもステージに関わることを10数年に渡って行ってきました。

同時期に、つくば市で発足したオペラグループ「つくばオペラフィオーレ」にも参加し、キャストとして、また時には制作者としてこちらも10数年関わってきました。

そうこうしているうちに、指導する歌やリコーダーの音楽サークルが増え、時間の余裕がなくなってきて、劇団の指導とオペラ活動と他の仕事との両立が難しくなりましたが、たまたまその時期に「劇団アルテ」は人数の減少もあり解散。「つくばオペラフィオーレ」の方は、退会することになりました。

それでも、思い切り声を出して歌えるたり、心を燃焼させて歌えるような音楽と関わっていきたいと思っていた時に出会ったのがゴスペルでした。
ある時、亀渕友香さんとVOJA(Voices of Japan)のコンサートを聴く機会があり、聴きながら「あっ、これだ!こういう音楽がやりたかったんだ!」と心の中で叫んでいました。
コーラスの指導をしている中で、参加するメンバーは、「コーラスとはこういうもの」というイメージを持っているので、「もっと自由に開放的に歌って。」とか、「バランスなど気にせず、もっと思い切り声を出して」というようなことを求めても、なかなかそうはいきません。
地域の文化祭などに出ると、周りのグループでは明らかに声を抑えて、身体も全く動かさず、精神修行のように声を潜めて歌っているグループがあります。
そういうグループを見て、本人たちは楽しんでいるのだと思いますが、現代の社会生活の中ではいろいろなことを我慢したり、自分の気持ちを抑え込んで生活しなければならないことが多いのに、趣味の音楽の場でも発散できないでいるのが可哀想だなという風に見えてしまいました。
そんなこともあり、段々と合唱をする人口が以前に比べて減ってきたり、カラオケで歌うことの方が発散になり、文化として定着したのなかと思います。

そんなことを考えていた時にゴスペルと出会い、早速、音楽教室でゴスペルの教室を募集したところ、映画の「天使にラブソングを」を見てゴスペルをやりたい、と思っている人たちがたくさんいた時期でしたので、たくさんの参加者が集まりました。

その次の年には、テレビの「ハモネプ」でアカペラも流行っていたので、そちらも面白そうだなと思い教室を始めたところ、そちらにも多くのメンバーが参加してくれました。
ゴスペルとアカペラに参加するメンバーは若い人も多いので活気があり、楽しい時期を過ごしました。
そして、いろいろなイベントに参加したり、亀渕友香&VOJAを招いてのコンサートを企画したりして、またまた忙しい日々を過ごしていました。

そんな矢先、気づかないうちに、身体も精神も限界に達していて、ある時、大きなイベント終了後にそのイベントの中心で頑張ってくれていた生徒さんから、企画上の問題点をたくさん指摘されていくうちに、精神が限界を超えて、鬱に近いような状態になってしまいました。
その後も、音楽教室の15周年で「第九」を企画したのですが、その時も、企画から、指導から、ありとあらゆることを一人で抱えてしまったため、また苦しくなってしまいました。ますます精神的に追い込まれた状態になり、本番の指揮は尚美の後輩の金井誠君にお願いし、合唱指導と企画に専念できたのですが、あの頃もとても辛い時期でした。

そいうたことがあり、それでも仕事は続けなければいけないので、生徒さん達にはそれを悟られないように頑張っていたので、多分、ほとんどの生徒さんはそのことに気づいていなかったのではないかと思います。

そんなある時、アカペラクラスの生徒の江口さんが、整体の学校の説明会に行くというので、面白そうだと思い、一緒についていくことにしました。
その前からずっと、歌の個人指導の時、この生徒さんは歌の技術の前にこの凝り固まった身体の状態を何とかしないといい声が出ないだろう、ということを思い、多くの生徒さんのレッスンの最初に自己流のマッサージなどをしていました。なので、整体にはとても興味がありました。

その説明会では、講師の先生が1人1人にデモンストレーションで、施術をしてくれました。
私も精神的なこともあり首が固まっていて曲げるのも痛かったのですが、施術をしてもらったら、痛みが取れ、頭がすっきりした感じがしました。
それがとても面白かったので、ごくごく基礎を学ぶだけの基本科だけ受けてみようと思って、そこに入学しました。
40代になって、今までの世界と全く違う世界での新たな学びが楽しくて、気が付いたら基本科だけでなく、最終の師範科まで通ってしまいました。
そして、同じく整体師を目指していた江口さんと共に、整体院を開業することになりました。

今振り返ってみてよく分かるのですが、この整体との出会いが無かったら、音楽の仕事に行き詰って精神的に病んだ状態になっていたと思います。
整体院を開業してからも、整体の技術はもちろんのこと、健康のために必要なことをたくさん学んでいくうちに、健康だった時の自分に段々と戻っていくことが出来ました。
そして、これも振り返ってみて気づいたのですが、一番調子の悪かった時は耳にも影響が出ていて、指導している時の演奏の音がぼんやりしていて、実ははっきりと聞こえていなかったのだということが、調子が戻ってきてから自覚することが出来ました。
私にとって整体は、必然であり無くてはならなかった出会いだったと思います。

まだ調子が戻り切る前、音楽教室は長年にわたりピアノと歌の講師を雇い、受付などのスタッフを雇い、経営者としての役割も担っていましたが、経営者で、音楽講師で、整体師であるということを全てをやり切ることが大変になっていました。
この時、自分は何が本当にしたいことなのかをじっくりと考えてみました。
中学時代の先生に憧れ、音楽を教える道に進むことを決め、ずっと教える仕事をしてきた中で、教えられることが何より私の幸せだということを再認識しました。
それと、後からスタートした整体の仕事も、一生続けていき自分を成長させていくことの出来るものであり、多くの方の役に立てるものとしてやっていきたいと思いました。

そこで、両親と弟の多大なる理解と援助、そしてお世話になった講師やスタッフによって続けてこられた稲荷前の音楽教室をたたむことにし、新たに現在の天久保のテナントに移り、私個人のみが講師である音楽教室と、江口先生と共に行う整体院をメインの活動としていくことになりました。

次の出会いは、シャンソンでした。
下館(現、筑西市)で、ゴスペルの講座を担当させて頂いたある時、講座の参加メンバーの中の4人に、私に相談があるということで呼び出されました。
その4人はシャンソンのサークルをやっていたのですが、指導者の先生が体調を壊して指導に来れなくなってしまったので、代わりに私に指導をお願いできないかという話しでした。
以前から、シャンソンは好きでしたが、全く教えたことはなく、ましてやフランス語は全く習ったことのない未知の世界でしたので、「もし、日本語で歌うことに限ってだったら教えられないこともないと思いますが、フランス語は出来ませんよ。」と話したところ、「それでいいので、お願いします。」ということで、シャンソンのサークルを教えることになりました。
ゴスペルやアカペラを始めた時も、全く経験のなかったものを、一から勉強して教えるようになったので、何とかなるだろうという気持ちもありました。

ある時、岡山県に親戚がいるのですが、その親戚と一緒に食事をした時、今どんな音楽をしているのかと聞かれたので、「シャンソンの指導を最近始めて、自分でも歌ってます。」いうことを話したら、「パリ祭などで活躍しているあみさんというシャンソン歌手が、うちの親父の教え子だよ。」ということを聞いたので、都内のライブハウスにあみさんのステージを聴きに行きました。その素晴らしい歌に惚れ惚れとして、こんな風に歌えたらと思い、この先、自分が歌手として歌っていく中で、シャンソンに力を入れて行こうと決めました。
同じ頃、取手市に住む三浦みどりさんや、筑波大出身でフランス語ペラペラのCatsu君こと倉井克幸君などのシャンソン歌手とも出会い、一緒にライブを行うなど、シャンソン界の方々とも多く知り合うようになりました。

また、ある時、いつも何かと声をかけてくださっていた銀行の営業の方が、テナントが前の使用者が改装した飲食店の状態のままだったので、「カウンターなどあってスペースが勿体ない」という風に言っていました。
確かに、カウンターの向こうはデッドスペースだし、整体院のスペースは厨房だった所なので入口が裏口で分かり難いし、何とかしたいとは思っていました。
その営業の方は、そういうことが好きらしく、「カウンターを取り払って、整体院を音楽教室の方の半分にして、整体院のドアを駐車場側につける。そうしたら、かなりの広いスペースになるからコンサートも出来るし、入口が駐車場側になれば患者さんも入りやすいし、いいと思いますよ。」と今の状態に近い提案をしてくれました。

そうなればいいなと思いつつも、それには費用が掛かるので、やるとしても先の話しと思っていましたが、たまたま商工会から送られてくるニュースの「小規模事業者持続化補助金」というものがあることが目に留まり、利用できる可能性があるかどうか商工会に相談に行きました。
商工会の担当の方が熱心にアドバイスしてくださり、テナントの改装費用の2/3を補助金でカバーできたので、無事に改装を行うことが出来、それにより、テナントでのコンサートも行うことが可能になりました。

その補助金の申請のために、なぜ改装が必要なのかということを企画書に書かなければいけなかったのですが、テナントを使って整体と音楽教室をコラボするナマの演奏を聴きながら整体の施術を受ける「癒しのコンサート」や自分が歌手でもありながら整体師であることを生かした「歌手のための整体」をやりますと書いたことで、以前から頭にありながら行動に移すことの出来ていなかったこれらの企画を背中を押されるように一気に動き出すことが出来ました。

現在では、「歌手のための整体」は、県外からも受けに来て下さる方もいますし、都内のレンタルサロンでも、月に4~5日は出張で施術をしに行くようになりました。
癒しのコンサート」もオリジナルのどこにもない企画ですので、毎回試行錯誤しながらですが、聴きに来てくださる方の心が安らぐような形に出来るように頑張っていて、毎回たくさんの方に喜んで頂いています。

高3で声楽を習い始めてから、40年とちょっと。クラシック・オペラからスタートして、ミュージカルの劇団、童謡、フォークソング、ゴスペル、アカペラ、シャンソンなどいろいろなジャンルの音楽と関わらせて頂く中で、それぞれの発声法の違い、同じ出し方でもこうすればよりその世界が表現しやすいというものを試行錯誤するチャンスを与えられ、しかも整体師として身体のことも分かってきたことで、これからが今まで長い年月をかけてインプットしてきたものをアウトプットし、皆さんのお役に立てるものと思っています。
また、挫折や迷い、苦難も経験してきた経験から、人の心にも寄り添える指導者としても、頑張りたいと思います。

長々と書かせて頂きましたが、私のこれまでの人生は、多くの人との素敵な出会いの上に成り立っています。この中に出てきたどなたか1人でも出会わなかったとしたら、全く別な生き方をしていたかもしれません。

これからも、いい出会いがあり、素敵なおじいちゃん先生として、長く教えること、人を笑顔にすることを目指して頑張ってまいります。


☆☆☆☆ 以下は、一般的なプロフィールです ☆☆☆☆

東京コンセルヴァトアール尚美教育科(=教員養成科)、及び研究科(声楽専攻)卒業。
声楽を、西義一、沢木和彦、F.アルバネーゼ、B.ダルモンテ、M.アルジェントの各氏に、リコーダーを、吉沢実氏に師事。
尚美在学中、「オペラシアターこんにゃく座」と出会い、メンバー主宰の研究所で1年間オペラ歌唱と「こんにゃく体操」を学ぶ。
また、尚美リコーダーオーケストラに所属し、全日本リコーダーコンクールにおいて最優秀賞を収める。
リコーダーオーケストラのメンバーとしてNHK「笛はうたう」「お達者クラブ」などの番組に出演する他、関東近郊の小中学校で演奏を行う。
卒業後、土浦市の都和小学校と守谷市の愛宕中学校において非常勤の音楽講師を勤める。
声楽の修業のため、イタリアのミラノに1年間留学。
帰国後、多数のオペラに出演する他、リサイタル活動なども行う。
オペラでは、「魔笛」「ジャンニ・スキッキ」「ディドとエネアス」「ラ・ボエーム」「秩父晩鐘」「ヘンゼルとグレーテル」「バスティアンとバスティエンヌ」「おこんじょうるり」などに出演。
平成元年より、つくば市稲荷前にて「ピアッツァ・アルテ音楽教室」を開校。
一般公募によるミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」公演を企画し、その後、そのメンバーによってアマチュア劇団「劇団アルテ」が結成される。
また、つくば市吉瀬のキャンプ場「フォンテーヌの森」にて野外オペラ「ラ・ボエーム」公演を企画、自らも出演する。
約50のアマチュア音楽団体による「つくば音楽団体交流協議会」の会長として、1994年より約10年間、「ムジカフェスタディつくば」を開催した。
つくば文化の風おこし協議会(つくば市生活文化課担当)会員として、市民劇団「つくばりあん」の結成に参画。
つくば国際文化都市フォーラムの企画運営委員(つくば都市振興財団)も2年間勤める。
つくばオペラフィオーレ会員として、多くの公演に出演すると共に、市民企画オペラ(つくばオペラフィオーレ協力)「ヘンゼルとグレーテル」公演においては総監督を勤める。
2004年1月には、ノバホールにおいて音楽教室の15周年を記念して「第九」つくば公演を主催。総監督として合唱指導を行う。
ノバホールにおいて行われた「VOJAつくば公演2004」の実行委員長として、ゴスペルの亀渕友香とVOJA(Voices of Japan)を招き、公演を行なう。
2005年1月には「ニューイヤーオペラコンサート2005」にて、合唱指導を行なう他、自ら出演もし、好評を得る。
2006年より、つくば市主催の「つくばで第九」の合唱指導を6年間担当した。
歌手としての自身の活動を、クラシックからシャンソンを中心としたポピュラー音楽に軸を移し、大小様々なステージに立つ。
2011年のまつりつくばでは、東日本大震災後の追悼の意味を籠めて、センターステージでソロを歌う。
シャンソン歌手の、あみ、Catsu、三浦みどりの3名と共に、Kareidoscopeというユニットを組み、牛久、筑西、東京(キンケロシアター)などのステージでコンサートを行う。
つくば市大形にある四季の馨りにて、「メリッサコンサート」のシリーズを11回、音楽教室のテナントに於いて、「LIVE SERIES SOUND WAVE」のシリーズを3回、都内世田谷区のカレー店アジアンビストロTIKA 世田谷区役所前店に於いて「華麗なる歌のコンサート」を2回、それぞれ不定期に継続している。
現在、音楽教室を稲荷前から天久保に移転し、声楽、ヴォイストレーニングの個人指導の他、クラシックからポピュラー、ゴスペル、シャンソン、童謡など様々なジャンルの13の合唱団、4つのリコーダーアンサンブルの指導を行っている。
2018年より、全く新しいタイプの整体と音楽のコラボ企画「癒しのコンサート」を始め、好評を得ている。

また、2007年、音楽教室と同じテナントで「リンパ整体院かえる」を開業。整体師としても施術にあたっている。
2019年1月より、都内のレンタルサロンにて、「歌手(シンガー)のための整体」の出張施術を行っている。

☆ ピアッツァ・アルテ音楽教室15周年コンサートの際にまとめた、それまでの活動の歩み ☆
・その1>>
・その2>>

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